人は、いつ大人になるのか。
人は、何の為に働くのか。
最近僕の中でぐるぐると渦巻いている疑問の二大巨頭はこれ。
(先に書いとこう、前回「何のために生きるのかって言うのは自分で死ぬほど考えて自分の中で答えを出した方がいい」って書いたと思うんだけど、それは誰のために何のためにそういう書き方をしたのか謎。このブログはあくまで自分の考えや思いを書き留めるメモ的な役割すなわち自分のためだけに書いてるので、前回の書き方は今思えば変だった。だから多分今回書いちゃうと思う。もし読んでくれてる方がいたら、変な奴だなぁってスルーしてください。自分も自分のこと気持ち悪っ、ってよく思ってる。)
この二大巨頭の原点は結局、「なんで生きるのか」に帰着してしまう。先に色々回りくどく説明もできるんだけど、単刀直入に書く。その答えは「死ぬために生きる」。これに尽きるんだと思う。
何を言ってるんだって思うかもしれないから、これからいろいろ説明加えます。
人は生き物であるからいつかは死ぬんです。それは何十年も先のことかもしれないし、来年かもしれないし、今日かもしれない。生きていればいずれ「死」に収束する。そのための準備をするために生きてんのかな〜って思う。
「死ぬ」ことを考えることは果てしなく未知の領域に踏み入ってるし、普通ならしないのかなって思ったりするからこれを書いてネットに投稿するのはいつも以上に躊躇う。どうしようやめようかな。(やめなかった)
大学1年の時、実家で飼ってたハムスターが死んだ。寿命だった。当時下宿してたから、親からの連絡でその事を知った。形容し難い感情が湧いたのは覚えてる。多分、死というものがあまり僕の中でわかってなかったんだと思う。数ヶ月して帰省したらケージごと居なくなってた。涙は出なかった。
あの子は幸せだったんだろうか。こういうことを初めて考えてる今、泣きそうになっている。遅すぎる。(もう少し長く生きていたら、まだいろんなこと出来たんじゃないだろうか)こういうことを考える。これは客観的な視点。
ではもし自分が直面したらどうだろうか。多分僕は、期が来たんだな、と主観的に思うんじゃないかな、それは避けられないから。
これを自ら客観的に見たらどうか。(まだ未来があったのに、まだ色々してないことが残ってるのに....)こういうことを考える。
おかしい。主観的と客観的だと同じ自分の死をこれほどまでに違う見方をしてしまうのかと。
じゃあ僕は僕が死ぬ時に、客観的な「あれをやっておけば良かった」とか「もう少しこうしておけば良かった」とかの″後悔″がないように生きよう。後悔がない生き方をすることが、死ぬための準備なんだと思う。その為に生きる。
始めの謎の二大巨頭のうちの一つ、「人は、何の為に働くのか」の答えはやっぱり人それぞれだと思う。知り合いは「美味い酒を飲むため」って言ってたなぁ。それもひとつでしょ。
二大巨頭のもう一つ、「人は、いつ大人になるのか」。これはまだわからない、これを考え始めた僕は多分まだ子供。でもきっと死ぬ気で生きていればいずれ答えが見つかる。そう思う。
飼っていたハムスター、あの子は多分幸せだったんじゃないかな。ひまわりの種をたくさんあげた、ひとつずつ受け取って十数個頬張ったあと寝床に持ち帰って行った。小さなケージから大きなケージに変えた、めちゃくちゃ走り回ってた。僕にはすげぇ幸せそうに見えた。
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ひとこと
最近、カンザキイオリさんの曲にハマってる。死ぬということは前向きではないのかなと思ってたけど、決して後ろ向きでもないってことを教えられた気がする。
スマブラ楽しみやーーᐠ( ᐛ )ᐟᐠ( ᐖ )ᐟ